作話てんかん(代理によるミュンヒハウゼン症候群) | 名古屋市【愛知県青い鳥医療福祉センター】
トップページ > 作話てんかん(代理によるミュンヒハウゼン症候群)
内容
「ミュンヒハウゼン男爵」
ギュスターヴ・ドレ
「母親はつねに正しい、と人には教えているし、また、そのように教えるべきだと信じている。しかし、母親が間違うときには、身の毛がよだつほどの間違いをおかすのである。そのことはきちんと認識すべきだ」
ロイ・メドー「児童虐待の奥地」
「人類は、はるか昔から嬰児殺しを繰り返してきたのである。嬰児殺しが起こりうるという冷厳な事実をわれわれは受け止める必要がある」
ロイ・メドー「作話てんかん」
「いかなる子どもも、信頼できる人間によって無条件に愛される権利を有する。私を生んだ女性は「母親」と呼ばれるに値しなかった。彼女は子育てを許されるべきではなかったのだ」
メアリー・ブライク「母が私を病気に仕立てた:代行性ホラ吹き男爵症候群を生き抜いた子どもの物語」
「現在の子どもたちも神聖な追憶をもつようになる…さもなくば生きた生活が中絶してしまうからである。少年時代の追憶から得た神聖な、貴重なものなしには、人間は生きていくことすらできない…追憶は、あるいは苦しい悲しいものでさえあるかもしれないけれど、しかし過ぎ去った苦痛は、後日魂の聖物になるものである。人間というものは概して、過去の苦痛を愛するように創られている」
ドストエフスキー「作家の日記 1877年7月・8月 1-1」米川正夫訳
▲このページの一番上へ戻る
冤罪てんかん患者
いままで何度も、てんかんの診断に目撃証言が大切なことを申し上げてきました。実際、てんかん発作の有無も発作型も目撃者の言葉だけを頼りに推定されることが少なくありません。現代技術の粋を集めた高価な検査機器よりも目撃者の一言の方がてんかん診療には圧倒的に重要なのです。
しかし、目撃証言によっててんかん発作を診断するにあたっては大事な前提条件があります。それは、目撃者がみずから目撃したことを嘘いつわりなく話してくれている、ということです。
もちろん、いつもは、それを当然のこととして診療がなされています。
しかし、万が一、目撃者が正直に話してくれていなかったらどうなるでしょう。それも、意図的に嘘の証言がなされていたら?
もし、何らかの意図で嘘の証言をする人間がいて、その人間が並べ立てる嘘八百を医者が真に受け、てんかん発作の診断をしたらどんなことになるか、容易にご想像いただけると思います。冤罪によって有罪を宣告された「犯罪者」のように、嘘の証言によって「冤罪てんかん患者」が仕立てあげられることになります。「冤罪てんかん患者」さんにとってはもちろんのこと、医療関係者にとっても、これは悪夢のような状況です。
しかし、残念ながら、現実にそれが起こりうるのです。
その悪夢を呼び寄せるのが、今回お話する、捏造され、偽造されたてんかん、作話てんかんです。
▲このページの一番上へ戻る
ミュンヒハウゼン男爵
しかし、作話てんかんのお話をする前に「ホラ吹き男爵症候群」という奇妙な症候群について、すこし触れておきたいと思います。
ただし、ホラ吹き男爵症候群というのは俗称です。医学書を開いても、そういう名前の症候群はでてきません。正式名は「ミュンヒハウゼン症候群」といいます。
病名にあらわれるミュンヒハウゼンというのは18世紀ドイツに実在した男爵の名前です。フルネームはヒエロニュムス・カール・フリードリッヒ・フライヘルト・フォン・ミュンヒハウゼンHieronymus Karl Friedrich Freihert von Munchhausen。(以下、岩波文庫のビュルガー編「ほらふき男爵の冒険」を翻訳された新井皓士氏の解説を引用させていただきます)。ボーデンヴェルダーに1720年11月に生まれ、1797年2月に76歳で没した18世紀ドイツの貴族です。18歳の時、男爵はブラウンシュヴァイツ家の公子アントン・ウルリヒ公につきしたがってロシアに赴きました。ウルリヒ公がロシアの皇女のもとに婿入りすることになり、ロシアに随行したのです。そして、ロシアに創設されたブラウンシュヴァイク騎兵連隊の旗手となります。その後、中隊指揮官に任命され、1739年の対トルコ戦争にも参加します。そして、ロシア軍の騎兵大尉にまで昇進しました。しかし、30歳の時、ドイツに帰郷して、結婚、その後40年以上、みずからの所領で暮らしました。そして、その間、� �談と狩猟の名手という評判を得ました。
ギュスターヴ・ドレ
「ミュンヒハウゼン男爵物語」
このミュンヒハウゼン男爵がまだ存命中の1780年代、「Mーh-s-の物語」という笑話集が「おもしろ文庫」の一冊としてベルリンで出版されます。
「ポーランドの雪原で我が輩は道に迷ってしまった。夜が更け、仕方なく、雪の上に突きでている杭に馬をつなぎ、夜を明かすことにした。翌日昼に目覚めると、太陽がさんさんと降り注ぎ、雪は溶け、雪原はかき消えていた。そして、我が輩は墓地で寝ていることに気づいたのである。頭上からは、馬のいななきが降りおちてきた。みると、我が輩の馬が、教会の塔の十字架に手綱で吊り下げられ、助けを求めていた。前の夜、雪原の中で杭とみえたものは、じつは、教会の十字架だったのである。教会が隠れるぐらい降り積もっていた雪が一晩のうちに溶け、馬が教会の てっぺんから吊り下げられたという次第だ。我が輩は短銃で手綱を撃ち、馬を教会から解放してやった」
このようなほら話がロシア、ポーランドを舞台に延々と続きます。「M-h-sー」とミュンヒハウゼン男爵を暗示する表題がついていますし、ミュンヒハウゼン男爵自身が著者ではないかとの説もあったようですが、今に至るも、この本の著者は確定していません。少なくとも話の内容は男爵の座談とはあまり関係がないようです。ドイツで昔から流布していた民間伝承のほら話がほとんどなのです。それを知る人ぞ知るミュンヒハウゼン男爵の冒険談ということにして、何者かが一冊の本に仕立てた、ということのようです。
筋肉を舞い上がる削減する方法
数年後、「Mーh-s-の物語」は英訳され、「マンチョーゼン男爵の奇妙きてれつなロシアの旅と出征の物語 Baron Manchausen's Narative of his Marvellous Travels and Campaigns in Russia」というタイトルでロンドンにおいて出版されます(Rudolf Erick Raspe The surprising adventure of Baron Munchausen)。英訳したのは詐欺師的傾向のあったドイツ人鉱物学者、ラスペです。この英訳本はイギリスで評判をとり、出版の翌年には新たなほら話がつけ足され、第二版が出版されます。そして、7版まで版を重ねます。こうして、ミュンヒハウゼン男爵は「ほらふき」としての国際的名声をえることになりました。
2年後、詩人のゴットフリート・アウグスト・ビュルガーが、ラスペの本をこんどは英語からドイツ語に翻訳します。その際、さらに新たに話をつけ加えています。
たとえば、ベーコンの脂身で数十羽の野鴨をとらえる話です。
ギュスターヴ・ドレ
「ミュンヒハウゼン男爵物語」
犬の引き綱に脂身を結わえ、湖を泳いでいる野鴨に放り投げると「一番近くのカモがスルスル泳ぎ寄りパクリと呑んだ。続いて他のカモどももこいつの例にたちまち倣ったのであります。なにしろ結わえてあるのは脂身スベスベの奴ですからして、全然咀嚼消化されずに尻からツルリと出る。すると次のカモがそいつをパクリとやる。するとまたツルリ、というわけで…ひもに通した真珠のように、カモさんたちは数珠つなぎになってくれたのであります」
それをいそいそと引き寄せ、数十匹のカモを吊り上げた、といった類の駄法螺話です。話の舞台も、ポーランド、ロシアに加え、トルコ、エジプト、セイロン、北米と世界中にひろがり、果ては、月世界にまでホラ吹き男爵は足をのばします。
18世紀末に独英2カ国で出版された「ホラ吹き男爵」の物語は評判を呼び、すぐに、海賊版も数多でるほどでした。19世紀にはいると、さまざまな言語に翻訳され、多くの作家がさらに加筆訂正して出版、児童書にまで翻案されました(日本でも高橋健二訳が児童書として出版されています(ミュンヒハウゼン著 高橋健二訳「ほらふき男爵の冒険」 偕成社文庫)。20世紀にはドイツ、ロシアなどで何度か映画化され、ファミコンのロールプレイイングゲーム(PRG)にまでなっています。こうして、西欧では「ミュンヒハウゼン(マンチョーゼン)」の名は世界を股にかけて旅する大ボラふきの代名詞となったのです。
そして、20世紀半ば、このほら吹き男爵の名前を冠した病気まで現れることになります。
▲このページの一番上へ戻る
ホラ吹き男爵症候群(ミュンヒハウゼン症候群)
「1951年3月16日、ロンドンのミドルセックス病院精神病態観察病棟にトーマス・ビーチズと名乗る47歳の男がハロー病院から転送されてきた。男は転院の3日前、3月13日にハロー病院に腸閉塞の疑いで入院、開腹術を受けていた。しかし、腸管も含め、腹腔内には何の異常も認めなかった。術後、男は病棟看護婦にくってかかるようになった。麻酔をかけられている間に看護婦が勝手に自分の財布をいじったというのである。そして、ついには、けんか腰になり、即座に退院すると息巻いた。暴力をふるううえ、開腹後一日しかたっていないというのに、歩いて病院をでていこうとするので、精神状態を観察するため、この男は我々の病棟に転送されてきたのである。
トーマスは分別もあり、言うことにも結構説得力があった。
そして、腹壁には手術痕と思われる歳月を重ねた瘢痕組織の塊が累々と盛り上がっていた。
かれの説明によれば、1942年、商船に乗っていて、日本軍の魚雷攻撃を受け、腹部に複数の傷を負ったということであった。その後、日本軍の捕虜となり、1945年までシンガポールに抑留され、その間、腹部の複数の瘻孔から便が漏出したとのことである。終戦で解放されたのち、トーマスはフリーマントル病院に入院、瘻孔を閉鎖する手術を7ヶ月間に11回受けた。その後、当院転院4日前までは、海で過ごしていたということであった。
しかし、話の内容が「ホラ吹き男爵」的特徴を有するため、かれの行動について、つっこんだ調査がなされた。すると、8日前、まだ海の上にいたはずのかれがロンドン、バルハム地区のセント・ジェームス病院に腹痛を訴えて入院していたことが判明した。さらに、一年前にも、トーマスは同じ訴えで同じ病院に入院していた。
そのうえ、1943年、シンガポールにいたはずのこの男は、当院に入院していたことも判明した。右下腹部瘻孔からの排膿を認め、入院したのである。当時、彼は『魚雷攻撃を受けた際にできた古傷がはじけた』と主張していた。
しかし、同時に、トーマスはつじつまの合わない説明もしていた。入院前、反社会的精神病質としてシェンリー病院に転送され、2ヶ月間経過観察がなされた後、退院したというのである。そのシェンリー病院の調べで、この男が長年にわたって反社会的行動を繰り返し、犯罪行為により三度起訴されていることが判明している。さらに、2度、ウェストパーク精神病院に収容されていた(そして、2度とも、逃亡)。
また、この男は1949年6月23日、ノーフォーク・ノーウィッチ病院にも入院していた。病名は、やはり、急性の腸閉塞である。この病院では、33年間英国空軍に籍をおき、1942年にはドイツのマンハイム上空で撃墜されたと話していた。撃墜後、8回の腹部手術と3回の消化管吻合術が必要になったというのである。ここでは、モルヒネ、点滴、胃内吸引による治療を受けたが、開腹術を拒否、制止を振り切って、3日後、退院している。
結局、今回は何ら身体的異常を認めず、転院3日後、3月19日にトーマスは退院した」
これは、リチャード・アッシャーがランセット誌に「マンチョーゼン症候群Munchausen's syndrome」として1951年に報告した症例の概略です。第1例目のこの男は、七転八倒する腹痛を訴え次から次へとさまざまな病院に出現、その迫真的演技で開腹術を必要とする重篤な急性腹症を起こしているかのように医者に錯覚をおこさせていたのです。そして、実際、開腹手術を何度も繰り返し受けていました。腹壁の複数の手術痕はその「勲章」でした。さらにこの男は架空の病歴をでっち上げてそれらの症状を説明していました。日本軍の捕虜になったことも、ドイツ軍に撃墜されたこともまったくでたらめの作り話だったのです。
虐待を受けた大人への影響
アッシャーはこの男に加え、同じように腹痛、嘔吐、下血などの症状をでっちあげ、繰り返し開腹術を受けていた女性症例2例を提示しています。そして、さまざまな場所(病院)に足跡を残し、作り話を吹聴して回る、この奇妙な症例の1群を、世界中を旅して回るホラ吹き男爵に敬意を表して「ミュンヒハウゼン(マンチョーゼン)症候群」と呼ぶことを提唱しました( Asher R. Munchausen's syndrome (1951) Lacet 1:339-41。Munchausenは本来Munchhausenとドイツ語で表記すべきですが、ロンドンでラスペが本を出版した際、ミュンヒハウゼン男爵の名前からウムラウトを省略し、さらにhも一つ取り払っていました。このため、英語圏ではマンチョーゼンMunchausenという綴りが定着しました。アッシャーもそれを踏襲しているわけです。そして、かれの論文の後、英文ではマンチョーゼン症候群Munchausen syndromeという表記が一般的になります。こうした表記上(発音上)の問題がある上、日本ではこの男爵の名前から「さまざまな場所を転々とするホラ吹き、大口叩き」を連想する方も少ないでしょうから、以下、この症候群をホラ吹き男爵症候群と呼ぶことにします)。
最初に診察したときから「ホラ吹き男爵症候群」と見抜くのは不可能だ、とアッシャーはコメントしています。それほど、患者たちの演技と嘘は巧妙で、真に迫っているのです。そのうえ、医者のほうも、自分の体を切り刻んでもらうために、症状をでっち上げ、迫真の演技をしてみせる、そんなばかげた患者が自分の目の前に現れるとは夢にも思っていません。簡単にひっかかってしまいます。
ただし、複数の手術痕(とくに、腹壁)、けんか腰で予測しがたい行動様式、訴えられる症状と身体的徴候との不一致などが、ある程度、診断の参考になるかもしれない、とアッシャーは指摘しています。論文に書かれた3例は急性腹症の疑いで開腹術を受けていますが(急性腹症型)、喀血、吐血があるように見せかける急性出血型、激しい頭痛、意識障害を演出して開頭術を受ける神経型など、ありとあらゆる症状、病気を騙って病院に出没するとアッシャーは解説しています。
この症候群の最大の謎は、動機です。
何らかの利得を目的とする詐病と違い、医者をだまし、自らの体を切り刻んでもらっても、普通に考えれば、患者たちにとって、なにも得るものがありません。
強いていえば、患者を演じたいという欲求、患者として同情され暖かな介護を受けたいという欲求、あらゆる人間を騙しつくしたいという狂おしい欲求が満足されるぐらいです。嘘をつくために嘘をついているとしかみえないのです。
そして、その「嘘をつく情熱」がでっちあげられた症状や捏造された病歴に迫力を与えます。患者たちはどうやら四六時中とりつかれたように医療機関を騙すことを考えているようです。その「努力」のおかげで、騙すことにかんして彼らは一種の「天才」となりおおせているのです。通常の医療関係者は医者も含めてこの「天才」には太刀打ちできません。嘘を見抜くことができず、内心、何かおかしいと思いながら、信じてしまい、振り回されることになります。
この患者たちの行動様式は、詐病などの虚偽性精神疾患とは一線を画する病態の存在を示唆しています。アッシャーがこの記念すべき論文を書いたのも、一つの症候群として捉えることが診断も含め臨床的に意味のあることであろうという考えからでした。
▲このページの一番上へ戻る
「ホラ吹き男爵症候群」その後
アッシャーの論文以前にも似たような症例の報告はあったはずですが、あまり注目されることはありませんでした。日本でも、頻回に腹部手術をうけている患者さんの中に、心理的要因の関与が疑われる例があることには気づかれており、消化器系心身症、腹部神経症、ヒステリーなどといった診断がとりあえずなされていました。しかし、一つの疾患としてとらえられることはありませんでした。ところが、ほら吹き男爵を引き合いに出したことが功を奏したのでしょう、アッシャーの論文は大きな注目を集めます。そして、この論文以降、「ホラ吹き男爵症候群」の症例報告が相次ぎます。
16年後の1967年、米国医学雑誌JAMAの総論でアイルランドたちは、アッシャーの報告以後、英語論文29編に59例が報告されていると記しています(Ireland P, Sapira JD, Templeton B.(1967)Munchausen's Syndrome: review and report of an additional case. Am J Med Associate 43:579-92)。
国別でみると英国からの報告が66%と圧倒的に多く、ついで、米国、フィンランド、スコットランド、オーストラリア、カナダの順です。
男性患者が女性患者より圧倒的に多く、約3倍です。年齢は19歳から62歳、平均39歳ですが、この「年齢」はホラ吹き男爵症候群が疑われた時点のもので、症状をでっちあげ、病院を受診するようになったのはそれよりずっと前、おそらくは成人に達してまもなくのことだろうと推定されます。
入院回数は平均で24回。しかし、アイルランドたちが報告している37歳の黒人男性は40回入院し、32回救急外来に受診していました。さらに、178回入院したという53歳男性が英国から報告されていて、おそらくはこの時点での「ギネス記録」だと思われます。
報告がなされている59例中36例(61%)が開腹術を(それも多くは複数回)受けていました。一方、7例(12%)には頭蓋骨穿頭孔が(これも複数)認められました。9例(15%)が吐血・喀血、8例(14%)が発熱、4例(7%)が血尿を症状としてでっち上げ、訴えていました。さらに、34例(58%)は医療関係者の制止を振り切って退院しており、18例(31%)は何らかの形で警察のやっかいになっていたことが判明しています。ほぼ、アッシャーが記載した行動パターンどおりです。
患者の精神構造についてさまざまな検討がなされていますが、症例がある程度集積されたこの時点でも、明確な結論はでていません。
少なくとも、患者たちが反社会的性格を有していることだけはたしかなようです。社会秩序からはみだしたところで生活しており、自分勝手で、他人に迷惑をかけないようにしようとする配慮はまるでみられません。このため、交友関係を形成、維持することもできません。怒りっぽく、気分屋で、反抗的で、自尊心や羞恥心はもちあわせていないようにみえます。そして、あてどなく、独りで、放浪して回ります。
警察にやっかいになることが多いということも、この症候群の患者たちの反社会的性格を物語っています。しかし、犯罪内容は、しみったれた盗み、酔っぱらいによる迷惑行為、といった軽犯罪がほとんどのようです。入院させられることを狙って犯罪をおかすことさえあります。
どのようにトゥレットは、その名前を得ました
こうした反社会的性格は、小児期の不適切な成育環境に起因しているという説をなす人もいます。親から拒絶され、否定され、貶められ、十分な愛情や安心感を与えられず、きちんとした親子関係が築けなかったことが異常行動の一因だというのです。実際、「ホラ吹き男爵」的行動は、自らを認めてもらおうとする挑発行動にみえないこともありません。反社会的行動、自己破壊的行動も、子ども時代から延々と続く、耐え難い不安を和らげる手段なのかもしれません。しかし、ほとんどの患者は家族との接触が途切れており、過去について本人が語る内容も、ほとんどが眉唾物です。信頼のおける生育歴情報がえることができません。ですから、本当に小児期に問題があったのかどうか 確認のしようがありません。
知能は平均か平均以下ですが、何らかの器質性脳障害を有しているわけではなさそうです。ロールシャッハなどの性格検査では一定した結果がでていません。しかし、「きわめて情緒不安定な精神病質者」で、「攻撃的で落ち着きが無く、注目されることを執拗に望み」、「返事は逃げ口上的」で、「気分の上下動が激しい」といった性格特徴は多くの患者に共通して指摘されています。
「ホラ吹き男爵症候群」の異常行動パターンを何とか矯正しようと、さまざまな努力がなされました。しかし、どれもうまくいっていません。うまくいかないのは「治療」自体が行えないからです。もともと、どの患者も「治療」を望んでいません。そして、たいていは「治療」がはじめる前に行方をくらましてしまいます。
万が一「治療」することができても、結果は思わしくないようです。たとえば、精神病院に入院させ、カウンセリングが繰り返しおこなわれた女性患者の1例が紹介されています。もういいだろうと外泊を許可したところ、この女性はすぐに姿をくらましてしまいました。そして、次から次へとさまざまな病院に出現、もちまえの演技力でふたたび「ほらふき男爵的」入院を繰り返したのです。
カウンセリング以外にも、睡眠療法、インシュリン誘発性昏睡療法、電気ショック療法、そして、ロボトミーまで、さまざまな試みがなされています。しかし、患者たちから「入院願望」を消しさることに成功した「治療」はありません。
しかし、あきらめてはならない、とアイルランドたちはコメントしています。人の手を借りて自分の体を傷つけようとする不幸な人間にたいし、医療機関から閉め出すだけで、こと足れりと考えてはならない、というのです。それでは、カップとベルだけを与え、社会からハンセン氏病患者を隠蔽していた中世暗黒時代となんらかわるところがない、とかれらは警告しています。中世の暗黒時代に戻らないためには寛容と忍耐、そして、長期にわたる粘り強い経過観察が必要で、そのためには、精神病院に入院させ、監視下におくことぐらいは最低限試みるべきではないかとアイルランドたちは提唱しています。
しかし、アイルランドたちの総論が書かれてから半世紀以上たっているにもかかわらず、治療に関しては進展がみられていません。
たとえば、2002年にターナーとリードがランセット誌に書いた「ほら吹き男爵症候群」の総論(Turner J, Reid S. (2002) Munchausen's syndrome. Lancet 359: 346-9)をみてみると、三徴として病気の捏造、病的虚言(幻想性虚言症)、遍歴癖があげられていて、症候群の定義そのものはかわっていません。
しかし、治療予後にかんしても、あまり変わりばえしません。患者たちの異常行動ははなから管理不能と考えられ、対策としては、ブラックリストを作成し、病院に受診できないようにしているところがほとんどです。アイルランドたちの理想論を実行に移すのはなかなか難しいようです。
ちなみに、国際疾病分類第8改訂版(ICD-8)では「ホラ吹き男爵症候群」が「症状あるいは機能不全を意図的に作成したり偽装する」虚偽性精神障害の一つとして位置付けられています。すなわち、「疾病や機能不全がないにもかかわらず、繰り返し、執拗に症状を偽装し、そのためならば、自ら、切り傷、擦り傷を作って血を流したり、服毒することさえ」あり、「苦痛の模倣、出血などの訴えが説得的で執拗で、理学所見とはあわないにもかかわらず、多数の病院で無用の検査や手術がなされることになる」症候群ということになっています。一方、米国精神医学会「精神疾患の分類と診断の手引き」DSM-IV-TRでも虚偽性精神障害の一つと位置付けられています。「病人を演じるという内的な(そして病的な)欲求がその動機とな� �ていて、詐病のように、そのことによって経済的な利益を得たり、罪から逃れようとする意図は認められないもの」という定義がなされています。
ただし、有名な割には、「ホラ吹き男爵症候群」はさほど多い病態ではないようです。虚偽性精神障害の約一割を占めるに過ぎないと推定されています。
▲このページの一番上へ戻る
代理によるミュンヒハウゼン症候群
(代行性ホラ吹き男爵症候群)
ホラ吹き男爵症候群」はやっかいな病気です。医療側は多大な迷惑を蒙りますし、医療費が無駄に使われることになります。そして、本人も「傷つき」ます。
しかし、それでも、傷つくのが本人だけなら、まだましかもしれません。
というのは、中には、病院とのつながりを保ち、同情的な医療スタッフに囲まれ、献身的な親という賞賛の言葉を勝ちとろうとして、自分の子どもを利用しようとする人間がいるからです。母親が(まれに、父親や継母が)自分の子どもをだしにして「ホラ吹き男爵症候群」的欲望を満足させようとするのです。これが「代理によるミュンヒハウゼン症候群」と呼ばれる「病態」です。ただし、この奇妙な症候群名は、元来、「子どもがホラ吹き男爵症候群を代行させられている小児虐待症候群」という意味で提唱されていますので、ここでは、「代行性ホラ吹き男爵症候群」と呼ぶことにします。
この症候群を最初に記載したのは、アッシャーと同じ英国人で、ロイ・メドーという小児科医です。論文が発表されたのもやはりランセット誌で、1977年のことです(Meadow R(1977).Munchausen syndrome by proxy: the hinterland of child abuse. Lancet 2:343-5)。
メドーはこの論文で症例を2例呈示しています。
1例目は6歳女児です。腐敗臭を放つ血尿を繰り返す奇病に罹患しているというふれこみで、この女の子は英国のリーズ市にあるメドーが勤務していた病院の小児腎臓科に紹介されてきました(メドーは若い頃、発達精神医学にも興味を抱いていたようですが、論文発表当時は、小児腎臓学を専門としており、英国小児腎臓学会の創設メンバーの1人にもなっています)。
「母親は乳児期早期からこの女児のオムツに黄色い膿が付くことに気づいていた。そして、生後8か月からは尿路感染症が疑われ、抗生物質が間歇的に投与されるようになった。しかし、尿路感染症はいっこうに軽快しなかった。
こうして、3歳からは、7種類の抗生剤がかわるがわる持続的に投与された。抗生剤のせいで薬疹を生じたり、真菌症(抗生剤によって細菌が死滅した隙間をぬってカビ(真菌)が増殖する疾患)に罹患したりする羽目に陥ったが、相変わらず、腐敗臭のある血尿が、発熱、下腹部痛を伴ってみられた。外陰部痛、帯下が認められることもあった。
女児の両親は30代後半で、父親は夜勤勤務が多い職に就いていた。母親も尿路感染症に罹患したことがあるが、3歳の弟は健康だった。
女児は、紹介の時点で、すでに、2つの病院で、尿路造影を2回、排尿時膀胱尿管造影を1回、麻酔下の内診を2回、膀胱鏡検査を2回受けていた。しかし、異常は一切、認められなかった。強力な抗生剤が投与されたが、病勢は強まるばかりだった。
担当医たちは困惑していた。原因がわからないばかりではない。膿性血尿がみられた数時間後に、まったく正常な尿が排泄されるということが幾度となく繰り返されていたからである。
紹介されてきたとき、女児は健康そうで、発達も正常であった。
まず疑われたのが、尿道あるいは膣に開口し何らかの感染を繰り返している嚢胞、もしくは、異所性尿管だった。そこで、泌尿器科の協力も得て、膿尿で来院した直後に徹底的に検索しようということになった。
しかし、うまくいかなかった。
膿尿のたびに3度検索が行われたが、感染源は特定できなかった。さらに、単純骨盤レントゲン撮影、膣造影、尿道造影、注腸造影、恥骨上膀胱穿刺、膀胱カテーテル検査、尿培養、剥離性尿路上皮細胞診が行われたが、やはり、原因はわからなかった。
この間、両親はきわめて協力的だった。とくに、母親は女児が入院している間中、ずっと付き添っていた(かつてのイギリスでは入院するときは子どもでも1人のことも少なくなく、日本のように入院している病児に四六時中保護者が付き添うということはめずらしいことだったようです)。母親は女児のことをつねに気にかけ、愛情をこめて接していた。しかし、女児の病気の原因についても、医者に負けないくらい、気にかけていた。病因検索への母親の飽くなき情熱は、女児本人への気がかりを回るほどだった。
膿尿、発熱のクリーゼのたびに緊急入院を繰り返し、検査のために緊急麻酔が施されたことまであった。入院は週末の休みに多い傾向がみられた。
問題は回答不能にみえた。つじつまの合わないことが多かった。異常尿は分単位で正常尿に戻った。そのうえ、膿尿の起炎菌がくるくる変わった。早朝尿からは大腸菌が検出され、その後、数回、正常尿が続き、夕方の尿からは大腸菌とはまったく異なるプロテウス菌や腸球菌が検出された。
この時点で、母親の心性や行動様式が、以前診た症例(症例2)の母親に類似していることに気づかれた。そして、母親が申し立てる病歴はすべて嘘ではないかという疑念が生じた。実際、よくよく検討してみると、母親が管理していた尿だけに異常が認められていたのである。
仮説を検証するため、入院中、ベテラン看護師が排尿時に付き添い、排尿直後から尿検体を厳重な監視下におくようにした。すると、まったく正常な尿が何日も排泄された。そして、4日後、監視の手をゆるめた。排尿時、母親だけが付き添うようにしたのである。あるいは、排尿後しばらく、母親の手許に女児の尿を残すようにした。すると、母親は血に染まった、粘膜の破片の浮いた細菌尿をもってあらわれた。ついで、ふたたび、排尿と尿検体を看護師の厳重な管理下においたところ、尿所見は正常に復した。7日間に女児は57回排尿し、うち、看護師の監視下に採尿された45回の尿はまったく正常であった。一方、母親の手にゆだねられた12回の尿は血を含み、さまざまな細菌が混入していた。
この間、女児の母親は月経中だった。母親を説き伏せ、母親の尿も検査し、警察の鑑識課に血のまじった女児の尿と母親の尿の分析を依頼した。すると、母親にしかみられないはずの赤血球酸フォスファターゼBb型が女児の血尿から検出された。
膿混じりの女児の血尿が母親により偽装されたものであることが明白となったのである。
しかし、それまでに、母親の偽造によって女児は12回も入院させられていた。腎盂造影、膀胱造影、注腸造影、尿道造影などのレントゲン検査も繰り返し行われていた。さらに、麻酔下の検査を6回、膀胱鏡を5回、8種類の抗生剤を含む有毒な薬による不愉快な治療をうけ、尿道カテーテル、膣ペッサリーが施され、抗菌クリーム、抗真菌クリーム、エストロゲンクリームが塗布されていた。尿培養が150回おこなわれ、16医療機関を受診させられていたのである。
結局、母親は嘘でかためた人生を送っていたということになる。そこで、精神科に紹介されたが、娘の尿に偽造工作していたことを母親は頑なに否認した。
母親が精神科に通っている間に、女児は「健康」になり、何の症状もみられなくなった。「リーズ市に通うようになって、娘はすごくよくなった。私たちの願いは聞き届けられたのだ」と両親は喜んだ。
その後、この母親の尿路感染症の病態がかなりひどいことが判明した。しかし、自分の尿路検索の際にも、体温表を改ざんし、紅茶を入れたカップで体温計を暖めたりしていた。
この女児は夫婦が長らく待ち望んでやっと生まれた子供だった。しかし、出産後、夫の愛情が自分から子どもに移ってしまったと母親は感じていたようである」
この症例1の母親と類似した心性、行動様式がみられたというのは、生後
0 コメント:
コメントを投稿